徳川家康の天下取りを語るとき、しばしば「三河武士の忠義と結束」が強調されます。
検索しても美談が並びますし、「三河の一人は尾張の三人に匹敵」などの言い回しも有名です。
とはいえ史実を丁寧に追うと、三河武士が最初から最後まで一枚岩だったわけではありません。
忠臣もいれば背反もあるのが実像に近いとおもいます。
結論を先出しすれば、【三河武士=生まれながらの忠臣】、ではありません。宗教や情勢に引かれて主君と距離を取る者がいる一方、命を賭して家康に殉じた者もいた。家康の強みは、この多様な家臣団を赦免・再配置・軍制改革といった運用で束ね直し、結果として「忠義の物語」を機能させた点にあると思います。
祖父と父を討ったのも三河の家臣だった
家康の祖父・松平清康は勢力拡大の途上、家臣(=三河武士)により暗殺されました。
跡を継いだ父・松平広忠の時代も家中は不安定で、嫡男・竹千代(のちの家康)を今川へ護送する途上には、三河方の者が織田へ“売る”動きまで生じます。交渉の末に竹千代は今川方へ戻りますが、そのさなかに広忠もまた家臣の手で命を落としました。
ここから見えるのは、三河武士が当初から鉄壁の忠誠で結ばれていたわけではない、という現実です。
家康期になっても続く分裂――三河一向一揆
桶狭間(1560)後に家康(松平元康)が岡崎で独立し、信長との清州同盟を背景に三河平定を進める中、1563年に三河一向一揆が勃発します。
のちに名の知れた本多正信、蜂屋貞次、渡辺守綱、夏目吉信(広次)らが一揆側に回り、家康は苦戦を強いられました。主従の忠義と、信仰共同体の結束が真正面から衝突したためです。
鎮圧後、家康は帰参者を一律に処断せず、赦して再配置しました。よく“寛大な名君”として語られますが、家臣団の半数近くが敵に回った状況で全面粛清は国力を致命的に損なうという冷静な計算が背景にありました。
結果としてこの“苦渋の寛容”が家中の再結束と運用の実利につながります。
※三河一向一揆…三河国内の一向宗勢力と在地武士・百姓らが結束した宗教一揆。主従関係と信仰のロイヤルティがぶつかり、家中分裂を招いた。戦後処理の仕方が、その後の家臣団統合を方向づけた。
忠臣の背後で起きた“痛恨の出奔”――石川数正
本能寺の変後、時代は豊臣へ。
秀吉に警戒される家康を家臣団が支えたい局面で、側近中の側近・石川数正が小牧・長久手の戦いののち出奔し、豊臣方へ転じます。数正は人質時代からの腹心で、軍政両面の要。徳川の内情に通じた重臣の離反は最大級の情報流出で、家康は軍制や機密管理の見直しを迫られました。
ここにも“忠義一色ではない”現実が表れています。
※石川数正の出奔とは?
徳川の中枢を担った重臣が豊臣へ転じた事件。以後、家康は部隊編成や情報の持ち方を見直し、冗長性と分散を意識した体制へと調整を進めたとされる。
それでも残った「忠義の核」
一方で、本多忠勝・榊原康政・酒井忠次らは一向一揆にも与せず、数々の合戦で家康と生死を共にしました。鳥居元忠は関ヶ原前の伏見城の戦いで石田三成軍の猛攻をしのぎ討死、夏目吉信(広次)は三方ヶ原の戦いで身代わりとなって主君の命をつなぎます。
派手な武功こそ少ないものの、今川臣従時代から支え続けた平岩親吉のような宿将もいます。
こうした行為が、家康統一の物語に“背骨”を与えたのも確かです。
神話を相対化すると、家康の「統治の巧さ」が見えてくる
・三河武士は、はじめから一枚岩ではなかった(祖父・父の横死、宗教一揆、重臣の出奔)。
・それでも家康は、赦免・再配置・軍制改革など“制度的手当て”で家臣団を再統合した。
・忠臣の献身は確かにあったが、それを“継続可能な体制”に変えた運用こそが家康の強みだった。
要するに、「三河武士=特別に忠義深いから勝った」のではありません。
忠義も離反も抱え込む“人間の組織”を、家康が制度と運用で束ねきったから勝てた。
こう捉えると、徳川260年の起点にあるリアルな統治像が、より立体的に見えてきます。
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