北畠顕家(きたばたけ あきいえ)は村上源氏の名門に生まれた公家で、村上天皇の孫・師房を祖とする家系。父は北畠親房(ちかふさ)で、幼少期から朝廷の中枢に近い環境で育ちました。
わずか3歳で従五位下に叙任され、14歳で従三位参議に昇進するという異例の出世を果たします。武士ではなく公家でありながらも、その後の人生は剣戟と軍略で『おんぶちのめす』ことになります。
当時の記録では、後醍醐天皇が幼少の顕家を「可愛らしくも堂々たる人物」と評したと伝えられています。後世の肖像画も端正な顔立ちで描かれ、文武両道の才を持つ青年像がうかがえます。
建武の新政と奥州平定
1333年、鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武の新政が始まります。顕家は奥州(現在の東北地方)の鎮守府将軍に任命され、北条氏残党の一掃を命じられました。
当時の奥州は、南部氏や伊達氏をはじめとする有力武士団が独立性を保っており、朝廷の支配が及びにくい地域でした。顕家は政治交渉と軍事行動を巧みに使い分け、短期間で東北の諸勢力を従わせます。
この功績により従二位に昇任、公家としても異例の武功を上げた人物となります。
足利尊氏との対決と「奥州大返し」
やがて足利尊氏が後醍醐天皇に背き京都を制圧すると、顕家は奥州から大軍を率いて出陣。
この時の進軍は「奥州大返し」と呼ばれ、戦国時代の秀吉の「中国大返し」以上の速さで進軍します。
顕家は5万の兵を率い、奥州の拠点・多賀城を出発。約600kmの道のりを半月ほどで走破しました。これは1日あたり約40kmの行軍速度で、鎧を着けた兵士と馬を伴う軍勢としては驚異的なスピード。
その要因としては以下が考えられます。
- 奥州が古くから馬産地であり、軍の多くが騎馬隊で構成されていた
- 補給を現地調達(略奪)で賄い、荷駄隊を減らした
- 進軍ルートの拠点が手薄で、大規模な抵抗がなかった
顕家はこの強行軍によって新田義貞・楠木正成と合流し、足利軍を九州まで撤退させることに成功します。これは南北朝初期の最大の勝利の一つでした。
風林火山の先駆者?
武田信玄の代名詞である「風林火山」ですが、その旗印を初めて用いたのは北畠顕家だったとも言われます。顕家は孫子の兵法を愛読し、その有名な句「其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山」を旗に掲げたとされます。
さらに、武田家と同じ「割菱紋」も陣幕に使用しており、信玄は顕家を手本にした可能性があります。20歳そこそこの青年が後世の名将に影響を与えたと考えると、その先見性と軍才には驚くばかりです。
二度目の上洛と石津の戦い
足利尊氏は九州で勢力を回復し、再び京都へ侵攻してきます。顕家は再び奥州から大軍を率いて上洛を目指しますが、今回は事情が違いました。
長期遠征による兵の疲弊、新田義貞ら南朝方との連携不足が響き、戦況は悪化。1338年、和泉国石津(現在の大阪府堺市付近)で高師直軍と激突します。顕家は形勢不利と見るや自ら少数の兵を率いて突撃、壮絶な最期を遂げました。
享年21歳――あまりに早すぎる死でした。
後醍醐天皇への進言「北畠顕家上奏文」
最期の戦いに赴く直前、顕家は後醍醐天皇に上奏文を提出します。そこには建武の新政の問題点と改善策が記されていました。内容は驚くほど現実的で、今日でも政治論として通用するほどで、現代の政治家にも……
- 地方分権の推進
- 民の税負担の軽減
- 贅沢の禁止
- 政策の一貫性の確保
- 人事・恩賞の公平化
もしこの意見が実行されていれば、南朝はもう少し長く存続したかもしれません。しかし、後醍醐天皇はこれを受け入れず、顕家は失望を胸に戦場へ向かいました。
「花将軍」と呼ばれた理由
顕家はその美貌と若さ、そして果敢な戦いぶりから「花将軍」と称されました。武士社会では珍しい公家出身の将軍でありながら、戦場での采配は老練な武将に匹敵します。
楠木正成や新田義貞と並び、南北朝時代を代表する英雄の一人とされますが、その生涯はあまりに短く、もし長く生きていれば歴史は大きく変わっていたかもしれません。
村上水軍との意外な縁
一説によると、顕家の子・北畠顕成が「村上水軍」の祖となったとされます。村上水軍は後に戦国時代の瀬戸内海を支配し、日露戦争の秋山真之参謀が彼らの戦術を参考に「丁字戦法」を編み出したとも言われます。
もしこの系譜が事実であれば、顕家の血は数百年後の日本海海戦でロシア艦隊を破った勝利にもつながっていたことになります。
北畠顕家は公家でありながら武将としても卓越し、政治的視野も広い稀有な人物。21歳という短命ながら、軍事・政治・文化のいずれにも名を残し、その姿は『逃げ上手の若君』では、多くのファンがその魅力に惹きつけるでしょう。
南北朝時代は人物が入れ替わり立ち代わりで複雑ですが、顕家という存在を通して見ると、政治と戦争、理想と現実のせめぎ合いが鮮やかに浮かび上がりますね。
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