【逃げ上手の若君】のモデル、北条時行とは?──史実でたどる“リアル逃げ上手”の生涯

南北朝時代

少年ジャンプ連載中の人気作品【逃げ上手の若君】。

主人公の北条時行(ほうじょう ときゆき)は、史実にも実在した人物です。

私たちが学校で習う「鎌倉幕府滅亡」の裏側には、この若き武将の“逃げながら生き延びる”波乱の人生がありました。

作中で描かれる巧みな逃亡劇や奇襲戦法は、実際の時行の行動とリンクする部分も多く、知れば知るほど「面白い…!」と感じるはずです。

今回は、アニメ・漫画ファン向けに北条時行の生涯をわかりやすく追ってみましょう。

鎌倉幕府滅亡と信濃への逃避行

時行は鎌倉幕府の執権・北条高時の次男として誕生します。

しかし1333年、足利尊氏後醍醐天皇に寝返り、新田義貞が鎌倉に攻め込むと、北条一族は次々と自害。

鎌倉幕府はあっけなく滅びます。

幼い時行は家臣・諏訪頼重に救われ、信濃(現在の長野県)へ逃亡します。
史料によれば当時わずか4歳ほど。まさに「逃げ上手の若君」誕生の瞬間。

初陣にして鎌倉奪還──中先代の乱

1335年、時行は成長すると諏訪頼重と共に挙兵。

建武の新政に不満を持つ武士たちを味方につけ、信濃から鎌倉へ進軍します。

足利直義率いる大軍を撃破し、わずか20日間ながら鎌倉を奪還。幼少期に奪われた故郷を一時的に取り戻します。

しかし、この知らせを聞いた尊氏は後醍醐天皇の許可も得ずに出陣。鎌倉を包囲し、頼重をはじめ多くの仲間が自刃に追い込まれます。

このとき、諏訪頼重の機転で時行はまたも逃げ延びました。

南朝への帰順と北畠顕家とともに再び鎌倉へ

その後、南北朝時代が幕を開けます。

時行は一時的に雲隠れをしますが、1337年ごろ南朝・後醍醐天皇に帰順。

鎌倉幕府滅亡の責任は父・高時にあると認めつつも、裏切った足利尊氏と直義への復讐を胸に誓います。

そして、奥州から畠山顕家が上洛するタイミングで、時行も伊豆から鎌倉を攻め再奪還し、勢いそのままに京都を目指しますが、行軍中に兵が疲弊。進路変更が裏目に出て敗北、顕家は戦死、時行は三たび逃亡します。

三度目の鎌倉奪取と最期

1348年、室町幕府内部の内紛(観応の擾乱)を好機に、時行は新田義貞義興らと共に再び鎌倉を奪還しかすが、約一カ月で奪い返され、逃亡生活へ。

1353年、ついに足利方に捕らえられ処刑されました。

鎌倉幕府滅亡からちょうど20年後のことでした。

この時、時行はまだ20代半ばだったと考えられています。

時行は実はしっかりと逃げていた伝説

一方で「時行は処刑されず生き延びた」という伝説もあります。

逃亡した時行は伊勢に渡り“伊勢次郎”として暮らし、その子孫がやがて戦国時代の北条早雲になる――。もしこれが事実なら、後北条氏は鎌倉幕府の正統な後継一族ということになります。

北条時行の人生は、まさに【逃げ上手】の名にふさわしい逃亡と生存の物語です。

作品ではコミカルな面や仲間との絆も描かれますが、史実の背景を知ると、彼の一つ一つの決断がより重みを増します。アニメや漫画で描かれるシーンも、「この場面はあの戦いの再現かな?」と史実を重ねて楽しめるはずです。

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