関ヶ原の戦いで西軍が敗れると、多くの大名が改易・減封に追い込まれ、その空白地には徳川家康が信頼する大名たちが配置されました。その中で異色の経歴を持ち、最終的に津藩32万石の大名となったのが藤堂高虎です。
彼は戦国時代においてなんと7回も主君を変えた武将。一見すると「裏切り者」と思われがちですが、実態はむしろ逆で、武勇と築城の専門スキル、義理を重んじる姿勢、柔軟な適応力でキャリアを切り拓いた「転職の達人」でした。
現代社会でも終身雇用の慣行が崩れ、転職は珍しいことではなくなっています。高虎の生涯は、私たちのキャリア形成にも参考になる部分が多いのです。
藤堂高虎の職務経歴(キャリア遍歴)
- 浅井長政(浅井家):姉川の戦いで初陣を飾るが主家滅亡
- 阿閉貞征(織田家):同僚を斬り出奔
- 磯野員昌(織田家):80石で仕えるが上司が改易
- 津田信澄(織田家):パワハラ上司を見限る
- 豊臣秀長(豊臣家):300石で仕官、後に2万石大名へ出世
- 豊臣秀吉・秀保(豊臣家):朝鮮出兵の功績で8万石へ
- 徳川家康(徳川家):関ヶ原で東軍として参戦、今治藩主から津藩32万石大名へ
こうしてみると、浅井家の滅亡や織田家の内紛など「本人の意思ではどうしようもない事情」で職を失ったケースも多いことが分かります。つまり、必ずしも裏切りではなく、環境の変化に合わせて柔軟に生き残った結果だったのです。
なぜ藤堂高虎は7回も転職に成功できたのか?
- 圧倒的な専門スキルを持っていた
高虎は武勇だけでなく、築城の名手として名を馳せました。黒田官兵衛・加藤清正と並び「築城三名人」と称され、彼が関わった城には聚楽第、伏見城、宇和島城、今治城、江戸城、二条城など錚々たる名城が並びます。
当時の大名にとって築城は軍事・権威の両面で不可欠の事業であり、「高虎にしかできない仕事」を持っていたことが、次のチャンスを引き寄せたのです。
⇒現代社会でも専門スキルは強力な武器。どの会社からも必要とされる技術や経験を持てば、転職市場で評価されやすいという点は変わりません。
- 義理を重んじ、信頼を得た
「7回も主君を変えた=裏切り者」と思われがちですが、高虎は決して冷酷な人物ではありませんでした。豊臣秀長に仕えてからは、秀長の死まで忠義を尽くしています。また、過去の上司であった磯野員昌の子・行信を家臣に取り立てるなど、恩を忘れない義理堅さも示しました。
こうした姿勢は人々の信頼を集め、幅広い人脈形成にも繋がりました。
⇒現代でも「信頼」を積み重ねることは重要。転職を繰り返す場合でも、過去の職場で誠実に働き、義理を果たした人は、次のチャンスで強力な推薦や人脈に支えられるのです。
- 状況を見極める柔軟な適応力があった
豊臣政権下で重用されながらも、秀吉没後は家康に接近し、関ヶ原では東軍に参戦しました。これは単なる裏切りではなく、豊臣家での自身の役割が頭打ちであると見抜き、次の環境を選んだ柔軟な判断でした。
さらに逸話として、家康の屋敷を建てる際に設計図を勝手に修正し、防御を強化して完成させたと言われています。リスクを取った独自判断が評価され、家康の信頼を勝ち取ったのです。
⇒変化に適応し、自分の価値を発揮できる場所を見極める柔軟性こそ、現代でも企業が求める資質だといえます。
現代社会に学ぶ藤堂高虎のキャリア戦略
藤堂高虎は決して「裏切り者」ではなく、むしろ転職を重ねながら成長を続け、最終的に大名として成功を収めた「キャリアの勝者」でした。
- 専門スキルを磨く
- 義理を忘れず信頼を積み重ねる
- 環境の変化に柔軟に適応する
この3つは、現代のキャリア形成にそのまま通じる普遍的な教訓です。
戦国武将の生き様から学べるのは歴史のロマンだけでなく、現代社会を生き抜く実践的なキャリア戦略でもあります。転職が当たり前の時代だからこそ、藤堂高虎の生き方は私たちに大きなヒントを与えてくれるのではないでしょうか。
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