【無能と呼ばれた戦国武将たち】朝倉義景編―越前を文化力で治め、信長も追い詰めた男の真実

戦国時代

歴史は勝者によって語られるもの。

そのため、敗れた者にはしばしば「無能」というレッテルが貼られがちです。ですが、本当に彼らは無能だったのでしょうか?

このシリーズでは戦国の世に名を刻みながらも敗れたために評価を下げられた武将たちに光を当てていきます。

今回は、越前国(現在の福井県)を治めた戦国大名・朝倉義景に迫ります。

「優柔不断な凡将」と評された理由

朝倉義景は名門・朝倉氏の第10代当主として一乗谷を拠点に勢力を築いた人物です。

義景が「優柔不断」と評される大きな要因は、室町幕府の将軍・足利義昭の上洛要請にすぐ応じなかった点にあります。義昭を擁した信長が先に上洛を果たすと、義景は時代に乗り遅れた印象を与えました。

しかし、一向一揆や当時の京を牛耳っていた三好や松永久秀の対応を考えると、義景の決断はあながち間違っていたともいいきれません。また、義昭の要請を断っていた大名は朝倉氏以外にも結構いたため、了承した信長が少数派なのでしょう。

時が進み、信長と義昭が対立すると義景は信長包囲網に加わりますが、1573年には本拠地・一乗谷が織田軍に攻め落とされ滅亡。その結果、「無能」「決断力に欠ける」といった評価が定着していったのです。

文化を育んだ「小京都」一乗谷

しかし、義景にはもうひとつの顔がありました。

それは文化を庇護し、越前を豊かな国へと導いた知識人としての姿です。

義景は戦乱で荒れた京を離れた公家や文人を一乗谷に迎え入れ、和歌・連歌・茶道・書道など多様な文化活動を支援しました。連歌会には多くの文化人が集い、町は「北陸の小京都」と呼ばれるほどの栄華を誇ります。

茶の湯にも熱心で、自ら茶会を開くなど文化を通じた政治交流も試みました。また、曹洞宗を手厚く保護し、永平寺など禅宗寺院の再建にも力を注ぎます。これらの宗教施設は、越前の精神的支柱として地域の安定にも貢献しました。

義景の内政と外交センス

義景は文化だけでなく、内政・外交面でも独自の工夫を見せました。

義景は足利義昭の上洛要請にはのらりくらりとしていましたが、義昭は政治的利用価値があるとして越前で庇護はしていました。こうすることで、幕府との関係を維持しつつ自身の正統性を確保し、さらに義昭の人脈を生かして大友宗麟や毛利輝元といった西国大名とのパイプも築いていました。

経済面では楽市・楽座に近い市制を導入し、季節ごとの市を設置して商業の活性化を促進。税制度でも重量課税制を採用し、寺社・武士・庶民に対して平等な税制を適用するなど、近代的な施策も試みています。

また、金融業においても土倉(質屋)に対し利息制限を設けるなど、過度な搾取を抑える姿勢を見せています。

戦国乱世を生きた「文の将」

確かに朝倉義景の後半生は織田信長という時代の風雲児に圧倒され、家は滅亡へと向かいました。

ですが彼は、儒学を政治理念に据え、文芸・弓術・礼法に通じた教養ある君主でもありました。

名将・朝倉宗滴の死後に義景が苦戦したことから、「宗滴あっての朝倉家」とする評価もありますが、義景自身もまた帝王学を学んだ人物であり、その治世には見るべき点が多くあります。

一乗谷は今も発掘・整備が進められており、復元された町並みや庭園が戦国時代の文化都市の姿を伝えています。一見の価値があるのでみなさんも、機会があればぜひ一乗谷を訪れてみてはいかがでしょうか?

歴史に「もし」は禁物ですが、もし信長が現れなかったなら義景の治める越前は、戦乱とは異なるもう一つの戦国のかたちを提示していたかもしれません。

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